『御所平と信州峠』から

山の詩人、尾崎喜八は昭和10年1月3日の早朝、小海線の終点駅「清里」から、積雪40cmの道を野辺山高原を経て(川上村)の御所平に一泊、次ぎの日に信州峠を越えて黒森・益富温泉に向かった。この時の紀行文が「山の絵本」の中に書いてあります。この前、川上村を散策していたら「御所平」との書いてある標識を見つけ、この本を思い出し、すごく懐かしくなりました。“ああ、ここが「御所平」なのか?丸正旅館は今もあるのだろうか?”。昭和の初めと今とではすべてに天と地の違いがあるのでしょうが、こうした地名と地形は何時までも残っています。

《「御所平」と名前のついた標識を見つけた》
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『細い路が急に顕著な降りになった。信州川上! 干曲川の開けた谷はすでに青々と暮れかけていたが、御所平の部落へ入れば鏡のように凍った往来の両側には門松が立ち、女・子供が遊んでい、さすが蕎麦の名所の川上も正月らしかった。私たちはくたびれた足を丸正旅館の土間へ投げ出した。ゲートルや靴に着いた雪は硝子のように凍っていた。』

そしてこの「御所平」のことを次にような散文詩で詠っています。

 『一里むこうの大深山はまだ華やかな夕陽だが、
 山蔭はもうさむざむとたそがれた御所平。
 四つ割の薪を腰に巻いて、
 注連繩張った門松に霜がちらつく御所平。
 海ノ口ヘの最後のバスが、
 喇叭鳴らして空で出て行った御所平。
 腕組しておれをながめる往来の子供たちが、
 みんな小さい大人のようだった御所平。
 楢丸一俵十八銭の手どりと聴いて
 ご大層なルックサックが恥ずかしかった御所平。
 それでも東京の正月を棒にふって、
 よくも来なすったと迎えてくれた御所平。
 ああ、こころざしの「千曲錦」の燗ばかりかは、
 寒くても暖かだった信州川上の御所平……
 そのなつかしい御所平を、
 味気ない東京の
 夜の銀座でぼんやりおもう。』

次に日に彼ら(尾崎喜八と義弟)は信州峠を越えて韮崎に向かいます。今回、私達は逆のルートを車で信州峠を越えましたが、今の信州峠は、舗装され何の見晴らしもなく、変哲のもない昔の面影は何もありません。そこには石塔もなく、手向けの石も、「信州峠」の標識さえないのっぺらとした峠道があるだけでした。私達は、便利になった分、何か大切な物を失ったのでしょうか?

『一月四日、今日はいよいよ名にのみ聞いて見るのはこれが初めての信州峠を越える日だ。風は千曲川を吹きおろして来る東寄りの軟風。きのうにくらべれば余程暖かい。床をはなれて二階の縁から眺めると、八ガ岳は破墨の雲に中腹以上を隠されている。頭上の天は高積雲のだんだら。気温も雲向も風向もすべて条件が悪いので、深雪をざぶざぶ溶かす峠の雨に遭っては困るなと、気を揉みながら宿を出た。(中略)
林の中の陰気な路は其処で終った。小さな坂をおりて沢を一本渡ると、山と谷との間の茶色に枯れた広い平坦地へ出た。右手にはその名のとおり優美な女山が薄陽をうけた雪の茅戸を展開し、左手には高登谷山がなかなか立派な山容をそばだてている。われわれの正面、この二つの山の間に見えるあの緩やかな凹みこそ目ざす信州峠にちがいなかった。其処では薄い高層雲の裾が風に捲れて、スカイラインに接した空がなんとも云えず美しい透明な草色になっている。なまよみの甲斐の空だ。
私たちは煙草をふかしながらぶらぶら行く。信州峠附近の平和な風景は、おそらく此のあたりから牧場ぐらいまでをもって最とするのだろう。路を横ぎってはみ出した落葉松の植林をぬけると、左手枝沢の流域の奥に犀角を立てた瑞牆山が現れる。きのうの夕方野辺山ノ原の一隅から見えたのも、ちょうどこの同じ直線の方向からだったのである。(中略)
左右の山が近くなった。深い雪が軟化してずぶずぶと足がもぐる。伐採の手の入った横尾山が樹木の毛を植えた白頭を押し立てて眼前に迫って来る。炭焼の竃が薄青い煙を上げてあちこちに。小屋の近所で遊んでいる子供の声、それにまじって犬の吠声。そこも過ぎていよいよ最後の二三分間を頑ばると、とうとう辿りついた信州峠。
私たちの眼の前には俄然全く新らしい風景が展開して、眼下の谷からは囂々と甲斐の大風が吹き上げて来た。』
                       *
『地図にある信州峠、これを信州側では小尾峠といい、甲州側ではしばしば川上峠と呼んでいる。蓋し北すれば信州南佐久郡川上村へ、南すれば甲州北巨摩郡増富村小尾へと通う、彼らの古い交通路によこたわる峠だからであろう。海抜一四六四メートルのその頂上には小さい石塔が立ち、手向けの石が積まれ、牧柵の柱が傾き、クラストした雪は足を裏切って、国境の風は膚を裂くように冷めたい。
 しかしここからの金峯山・瑞牆山の眺めは予想のとおり素晴らしかった。針のような木立が積雪の面に長々と影をよこたえて、その影が美しい縞模様をなしている尾根のむこうに、がっくりと釜瀬本谷は割れ込んでいるが、そこに銀の象嵌をほどこした真黒な瑞牆山の岩峯が、大鑢、子負岩こぶいわの鍬形を立てて兜のように鎮座している。金峯はその右手奥に見える。秩父連峯の盟主金峯山は、頂上の五丈石から賽ノ河原へつづく北面の斜面にべっとりと雪を塗りつけて、それがさっきから山頂へこびりついて離れぬ吹流しのような雲の揺れるまにまに、或る時は日を浴びて二里の彼方にぎらぎら輝き、また或る時は暗くかげって沈痛な青にかわる。この効果には実に一種悲劇的な偉大さがあった。
 金峯の南西の山稜は一度八幡山を起してそのまま次第に高度を減じてゆくが、その末にはまた新らしく曲ガ岳・茅ガ岳等の旧火山が頭をもたげて、釜瀬川本谷川の二つの渓谷とその間に紛糾する山々との彼方に、われわれの旅の終りの甲府盆地を匿している。』

《今の舗装された信州峠。眺望はない。もしかしたら冬場は木々の葉が落ちて少しは瑞牆山が見えるのかも知れない。峠を「黒森」の方に下ると晴れればい瑞牆山の異様な姿が望むことが出来る》
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『降りがだんだん緩やかになると、甲州最北の寒村黒森の部落が現れた。釜瀬の谷を見おろす斜面の地形を階段状に刻んで、可憐な農家や山畑が箱庭のような風景をなしていた。そしてこの恵まれぬ末の娘を特別愛し慈むかのように、母なる瑞牆はふところ深く彼女を抱きかばっていた。
 われわれは部落のはずれの最も貧しい一軒のあばら家で晩い中食をしたためた。囲炉裏ばたへわれわれを招じて香の物やお茶を出して呉れたその家の主婦は、さんばら髪に眼をしょぼしょぼさせながら、「択よりに択ってこんな汚ない家へ立寄ってくれた」ことで感謝していた。ひどい暮しらしく、家具といえば一箇の鼠入らずと真黒になった勝手道具だけだった。畳は心が出、壁はとうの昔に剥がれ、板を張らない天井からは、空の光が星のようにこぼれていた。それでも旧正月が間も無いというので、いろいろな話をしながら布団の綿を入れかえていた。だがその綿ぼこりが鼻の孔へ飛び込むのを、私たちは余り苦にもしなかった。入れかえるべき綿や布団が未だ有るならば、物を更新しようという気持をこの人が未だ持っているならば、それならばわれわれはいくらか心が楽にされるのだ。
 女は云った、「死ぬまでには一度でいいから東京って所が見たいものだね」
「東京を見たらこの黒森のよさがはっきり分るでしょう」と私はいった。
帰りしなに僅かの茶代を置いたら、「此処では日銭ひぜにが無くても暮らせるのに、こんなに頂いては済まない」と固辞したが、やがて押戴いて細帯の間へしまった。』

【東京を見たらこの黒森のよさがはっきり分るでしょう」と私はいった。】
いい言葉ですね。昭和十年の話とはいえ、彼の文章を読んでいると、つい一昔前の私の原体験に残されていたような風景を思い出します。時間に追われることなく過ぎて行った子どものころの風景。皆、貧しかったけれども助けあい生きていた美しかった時代の風景です。

《私達は行った日は生憎の雨で瑞牆山は見えなかった。この写真は瑞牆山のホンの入口の風景です》
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(注) 『』内表示の文章は尾崎喜八の「山の絵本」の「御所平と信州峠」からの引用しました。

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この記事へのコメント

二度上峠
2013年06月18日 06:01
おやおや、御所平という地名がここにもあったのですね。R146の北軽の信号を長野原方面に向かい、左側にあるJAのガソリンスタンドを300メートルほど過ぎた右側の集落も、御所平っていうんですよ。
子供の頃は「お天狗さん」がいる集落だったのですが、「お天狗さん」って、今で言う何なんですかね?。
地蔵峠っていうのは至るところにありますが、御所平は知りませんでした。
きらな
2013年06月18日 06:51
国土地理院の地図で調べてみました。確かに北軽井沢でも「御所平」の地名がありました。「御所平」って結構全国にあります。でもこの「御所」って何を指すのでしょうか?まさか皇室とは関係ないでしょうが。「御所を置いても良いくらいゆったりとした土地をさす」との説もあるようですが。「お天狗さん」の謂れは興味ありますね。二度上峠さんが知らないのでは調べようがありません。
きらな
2013年12月18日 16:19
Hiroさん、たぶんご指摘の旅館だとおもいます。村の観光協会で宿のパンフレットもらって確認したので、後で寄ってみようかと思ってたのですが別ルートで帰ったので確かめられませんでした、写真では小さな宿でした。当時の人情と風情が残っていれば冬の今頃泊ってみたいですね。信州峠もガラッと変わってしまったので、宿でも尾崎喜八の面影を覚えている人はもういないでしょう。

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